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名称の由来

Origin of the name財団名称『徳明会』の由来

琉大病院周辺の風景
琉大病院周辺の風景
琉大病院周辺の風景

 昭和54年(1979)10月に県民待望の医学部が琉球大学に設置された。これに伴い10年間続いていた保健学部は改組され、保健学部附属病院は医学部附属病院へ名称が改められた。
 医学部・附属病院は当時、那覇市与儀の地にあり、昭和59年に他学部が先に移転した西原町千原に隣接する上原の地にキャンパスを移し、同年10月15日に新病院を開院した。
病院には診療部門、検査部門、管理部門等の他に、売店、食堂、郵便局、理・美容室など、患者様の療養生活を支援し、病院の機能充実に協力する施設も必要である。これらの部門は病院が直接経営するものではなく、どの国立大学でも財団法人を設立して、各種サービス事業を展開し、その収益をもって医学部、病院、学生等の教育研究への助成及び患者様の療養生活を支援しようとするものである。
 琉球大学では病院の移転に併行して財団法人の設立を進めることになり、法人名称については設立準備委員会で検討が行われた。
 昭和53年4月19日の県内新聞に「全身麻酔手術、日本の元祖は沖縄」との記事が載り、何と、日本で最初に全身麻酔下で手術をしたと言われている華岡青洲より116年も前に、沖縄の高嶺徳明によって全身麻酔手術が行われていたとのことである。
 高嶺徳明(1653~1738)は、幼少にして中国の福州に渡り、中国語を習得し、29歳にして進貢使人の通事として活躍する。当時の琉球王「尚貞」の孫「尚益」は、生来の兎唇(口唇裂)で、将来王位の継承が心配されていたときに、福建省に兎唇の名医がいることがわかり、徳明はその秘法を伝授するに足りる適材として選ばれ、その秘法を学びとり、元禄2年(1689)5月に帰国し、王孫の治療に当り、痕跡を止めぬくらいに成功し、ついに、尚益は33歳で第二尚氏王期12代王位に就いた。
 その後、徳明の麻酔術は、薩摩の奉行附の医官にも伝授され、秘伝書二巻を薩摩に伝えたといわれている。さらに、紀州の地で「麻酔術の研究に専念し、文献収集に努めていた華岡青洲が、116年前に薩摩に伝わった中国伝来の徳明処方に気づかないはずはない。」と、鹿児島大学医学部教授による考察(昭和47年鹿児島県医師会報)もあり、徳明の麻酔術は、青洲をとおして、日本の麻酔学・外科学分野の発展に大きく貢献したものと推察される。
 また、近代医学の革命の一つといわれ、外科学の進歩に新紀元を画した麻酔法は、1846年のエーテル麻酔に始まるが、徳明の施術からは157年も後のことである。
 これだと思った設立準備委員会委員の奥平事務部長(当時)が、高嶺徳明の直系子孫を訪ね、財団法人の趣旨を申し上げ、ぜひ医学の先達のお名前を使わせていただきたいと懇願し、高嶺家の親族会を経て、「たいへん名誉なことで、有り難いことである。」と承諾をいただき、法人設立準備委員会の了承を得て、財団法人の名称を「徳明会」に決定した次第である。
 沖縄県民が永年の願望であった医学教育機関の誕生にあたり、この後援財団を「徳明会」と称し、永遠に高嶺徳明先生の業績を讃え、後進の励みに資することにしたものである。
 こうして本財団は、昭和59年9月29日付けで沖縄県知事の認可を得て、附属病院開院の日(同年10月15日)から各種事業を開始し、これらの収益をもって医学教育・研究、患者様の支援事業を行っているものである。

財団名称『徳明会』の由来

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